ACP(アドバンス・ケア・プランニング)

みたちこうしょうさんの投稿が新聞に掲載されました

コアメンバーの一人で、普段は東大阪市内にある浄土真宗 光教寺の住職をつとめる神舘 広昭(みたち・こうしょう)さんが書いたコラムが宗教専門の新聞である「中外日報」に掲載されました。これから2回にわたってご紹介します。

みたちさんのお写真はビールジョッキを掲げた姿しか、手元に残っていませんでした。(ごめんなさい)

住職というお仕事から東大阪プロジェクトや「縁起でもない話をしよう会」はどのように見えるのでしょうか。

なお新聞社の許可を得て、転載しております。

中外日報「随想随筆」(2024年6月21日)

「人生会議」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。アドバンス・ケア・ プランニングのことでそれぞれの頭文字をとりACPといわれます。

アドバンス・ケア・プランニングとは、自分自身大切にしている価値観や望み、また人生の最終段階でどのような医療やケアを望んでいるかについて、自分で考え、そのことについて家族をはじめとして信頼する人たちと話し合うことをいいます。

誰でもいつ、病気や事故などで命の危険が迫った状態におちいるかわかりません。日ごろから、医療・ケアについて信頼する人と話し合いをすることはとても大切だと筆者は思います。

けれど周りの人がよほどその人の価値観を知り、その人の気持ちに寄り添うことができないと、良かれと思ってしたことが、相手が望んでいないことをすることになりかねません。

法然上人の臨終の様子が記された『御臨終日記』という書物があります。

法然上人の臨終が近づくにつれ、上人は往生のことだけを語るようになられます。 また絶え間なく念仏をとなえ、睡眠中も口がかすかに動いて念仏をしておられたとあります。弟子たちは、『往生要集』に記されている臨終行儀を行おうとするのです。青・黄・赤・白・黒の五色の糸の一方を阿弥陀如来の仏像の手にくくり付けて、もう一方を法然上人に握らせようとします。  

この臨終行儀は、極楽へ導かれることを願って、当時多くの貴族が行っていたものです。しかし、法然上人は「普通の人であればそうするが、自分はそのようなことはしない」と言って糸を握ることを拒否したことが伝えられています。

人生の最終段階で、どのようなケアを望むのか、普段から話をして共通認識を持っていないと、望まないケアにつながるのかもしれません

医療・ケアをはじめ、誰にでも訪れる死の問題は「縁起でもない」と避けられがちな話題です。しかしとても大切なことであり、話をすることにより、お互いの理解や信頼関係が深まっていくのだと思います。

「縁起でもない話をしよう会」という集まりが各地で開催されており、筆者はこの会に参加して人生会議について知ることとなりました。次回はこのことを書きます。
『中外日報 2024年6月21号』より転載

まとめ

法然上人のような方にも「自分はこのような最期は望まない」というこだわりがあったことに、驚きました。しかし、どのように生きるか、そしてどんな最期を望むかは、職業や時代によらず人それぞれなのだと感じます。

次回は、避けられがちな「縁起でもない話」に参加した、みたちさんの感想を中心に紹介します。

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